絵は京都市山科区にある御廟野古墳の内部想像図です。
第38代天智天皇(中大兄皇子)のお墓です。
日本書紀には病死した事が書かれていますが、山科の森に狩りに出たまま行方が分からず、片方の沓(くつ)が見つかった所に陵を造った、という説もあります。
中大兄皇子は626年の生まれです。
諱は葛城皇子(かつらきのみこ)。
父は田村皇子(たむらのみこ)、母は宝皇女(たからのひめみこ)です。
父の田村皇子は中大兄皇子が4才の時に皇位を継ぐのですが、この時、難しい皇位継承問題に巻き込まれています。
前帝の推古天皇が明確に跡継ぎを示さなかった事が原因です。
ただ、これは蘇我蝦夷をはじめとする臣下たちが前帝の遺言の解釈を巡って揉めたもので、当事者の田村皇子と山背大兄王(聖徳太子の子)が兵を挙げて闘ったのではありません。
田村皇子は臣下たちの議論が落ち着くまで、我慢して待っていた印象です。
それでも死者は出てしまうのですが…。
そして議論が終わり、次期天皇が田村皇子に決まると、
「私は未熟者ですから…。」
と辞退しようとする欲の無さも見せています。
中大兄皇子の[問題が大きくなる前に邪魔者は消す]スタイルとは真逆です。
田村皇子(即位して舒明天皇)には、古人大兄皇子(ふるひとのおおえのみこ)という第一皇子がいました。
中大兄皇子にとっては腹違いの兄にあたります。
[大兄]というのは長男という意味で、[中大兄]というのは2番目の兄という意味です。
父の舒明天皇は、中大兄皇子が16才の時に亡くなります。
そして、母の宝皇女が即位します(皇極天皇)。
中大兄皇子には父親が違う兄もいます。
漢皇子(あやのみこ)です。
再婚だった母は、33才で中大兄皇子を生んでいます。
そして年齢差は分かりませんが、妹の間人皇女(はしひとのひめみこ)、弟の大海人皇子(おおあまのみこ)を生んでいます。
母が天皇に即位して4年目、宮中の母帝の目前で中大兄皇子、中臣鎌足らが蘇我入鹿を斬殺するという大事件がおきます(乙巳の変)。
この時、中大兄皇子は20才です。
翌日には入鹿の父の蝦夷を自害に追い込み、蘇我宗家は滅びます。
そしてまたその翌日、母は皇位を退き、母の弟が即位しました(孝徳天皇)。
中大兄皇子にとっては叔父にあたります。
そして乙巳の変から3ヶ月後には、舒明天皇の第一皇子で中大兄皇子の腹違いの兄である古人大兄皇子に謀反の疑いをかけ、処刑してしまいます。
中大兄皇子の乙巳の変の目的は、蘇我宗家の排除だけではなく、この古人大兄皇子も視野に入っていたと思われます。
妹の間人皇女は叔父の孝徳天皇に嫁して皇后になりました。
都は飛鳥から難波へ移されました。
しかし中大兄皇子28才の時、また大事件がおきます。
中大兄皇子が母と妹、弟、中臣鎌足をはじめとする臣下たちを引き連れて、飛鳥へ帰ってしまったのです。
置き去りにされた孝徳天皇は中大兄皇子を恨みました。
そして、中大兄皇子と間人皇女の不倫を責める歌を残し、翌年病死します。
飛鳥では、再び母が即位しました(斉明天皇)。
中大兄皇子と間人皇女の関係がどうであったのか、本当のところは分かりません。
分かるのは、間人皇女と夫(孝徳天皇)の間には子供がいなかったという事と、夫に近親相姦を疑われていたという事と、間人皇女が夫よりも兄を選んで飛鳥へ帰ったという事だけです。
近親相姦を肯定するわけではありませんが…、この時代はまだ権力闘争で身内同士が貶め合うだけでなく、殺し合う時代です。
権力に近いほど命の危険も多く、結婚も政略的にならざるをえない立場なら、純粋に心を許して休める相手は妹しかいないのかな…という気はします。
決して肯定しているのではありません。
中大兄皇子36才の時、母が朝倉宮(福岡県朝倉市)で亡くなります。
母の亡骸と共に飛鳥へ帰る船中で、中大兄皇子が口ずさんだ歌が残されています。
「君が目の 恋しきからに 泊てて居て かくや恋ひむも 君が目を欲り」
そしてその4年後、妹が亡くなります。
妹は母と同じ陵に合葬されました。
そしてこの時代のもう一人のカリスマ、弟の大海人皇子とは、警戒しつつも良い関係を維持しようとしていたのではないかと思います。
中大兄皇子が自分の娘を4人も大海人皇子に嫁がせているからです。
これには、大海人皇子の妻で娘まで生んでいた額田王を中大兄皇子が奪ったからだ、という説もありますが…。
また、息子の大友皇子の妻にその大海人皇子と額田王の娘を迎えるなど、血統の問題もあるのだとは思いますが、大海人皇子とは協力体制を崩さないよう、気を配っていたのだと思います。
蘇我入鹿をはじめ、臣下、異母兄、舅とその家族、従弟など、邪魔な存在を消しに消した中大兄皇子ですが、弟の事は抹消したくなかったのだと思います。
少なくとも息子の大友皇子が逞しく成長するまでは、そう思っていたと思います。
47才で中大兄皇子(この時は皇子ではなく天智天皇)が亡くなった後、弟と息子がやはり皇位をかけて闘い、弟は天武天皇となります。
奈良県高市郡高取町に宮内庁が管理する越智崗上陵があり、斉明天皇陵とされています。
また、奈良県高市郡明日香村の牽牛子塚古墳も斉明天皇陵ではないかと言われています。
どちらが本当の斉明天皇陵なのかは分かりません。
陵には中大兄皇子の母と妹の他に、8歳で夭折した息子も埋葬されているかもしれません。
建皇子(たけるのみこ)は日本書紀に言葉が不自由だったと記されています。
斉明天皇はこの孫をとても愛していました。
建皇子が幼くして亡くなった時、斉明天皇はひどく悲しんで、自分が死んだら建皇子と合葬にして欲しいと言い遺しています。
彼女の息子である天智天皇と天武天皇がこれを忘れるとは思えないので、記録としては残っていませんが、建皇子も同じ陵に眠っているのではないかと思います。
絵は斉明天皇陵の内部想像図というか、内部願望図です。







