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大伯皇女と大津皇子のお話

ふたりぼっちの姉と弟

大伯皇女(おおくのひめみこ)は661年2月12日(斉明天皇7年1月8日)大伯の海の上(岡山県瀬戸内市の沿岸)で生まれました。
この時代の人には珍しく、生まれた日にちまで分かっている人です。

2年後の663年、弟の大津皇子(おおつのみこ)が九州の那大津(博多湾)で生まれます。

飛鳥時代の皇女と皇子が大和から遠く離れた瀬戸内や九州で生まれているのは、この頃の世界情勢に原因があります。
朝鮮半島で百済が滅び、日本がその対応に追われて、というかその激動に自ら飛び込んでいっている最中で、天皇、皇子、その妃たちも軍船で大和〜九州を行き来しているからです。

2人の父は大海人皇子(後の天武天皇)です。
母は中大兄皇子(後の天智天皇)の子の大田皇女です。
ややこしいですが、母方の祖父が父の兄ということになります。

ちなみに、大伯皇女が生まれた時の祖父・中大兄皇子の年齢は36歳です。(若い!)

中大兄皇子は19歳の頃に乙巳の変(645年、当時20歳だった中大兄皇子らが宮中で蘇我入鹿を斬り殺した)の実行メンバーに蘇我倉山田石川麻呂を引き込むため、蘇我倉山田麻呂の次女と結婚しています。
大田皇女はその政略結婚で生まれた人なので、大伯皇女を生んだ時の年齢は、おそらく14〜6才です。

この若い母は、大来皇女7才、大津皇子5才の時に亡くなってしまい、2人は中大兄皇子に引き取られます。
母方の実家(乙巳の変の実行メンバーに引き込まれた蘇我倉山田麻呂の家族)が、乙巳の変から4年後に娘婿の中大兄皇子によって、一家心中に追い込まれているからです。(中大兄皇子めちゃくちゃです)
中大兄皇子の妃になっていた蘇我倉山田麻呂の次女(大伯皇女、大津皇子にとっては祖母)もこの後病死しています。
もしこの家族が残っていたら、大伯皇女と大津皇子の心強い後ろ盾になってくれていたかもしれません。

大津皇子は伸びやかな性格で、中大兄皇子に気に入られていたようです。

大伯皇女11才、大津皇子9才の時、父の大海人皇子が近江の都を出て吉野へ移ります。(皇位継承問題で身の危険を感じたため、出家するふりをして都を脱出)

その翌々月に祖父の天智天皇(中大兄皇子)が47才で亡くなります。
母と母方の祖父母が亡くなり、大伯皇女と大津皇子が頼れるのは吉野へ脱出した父だけになりました。
父方の祖父母(舒明天皇と斉明天皇)は大伯皇女が生まれた年までに既に亡くなっています。

皇位は天智天皇の子の大友皇子(弘文天皇)が継ぎました。

そしてその翌年、古代史上最大の内乱、壬申の乱がおこります。
父の大海人皇子が挙兵した事を知った大津皇子は、素早く近江の都を出て父の陣営に加わっています。
この時、大津皇子は数えで10才です。
父と叔父との皇位をかけた闘いは父・大海人皇子が勝利して終わります。
父は天皇となり、都は近江大津宮から飛鳥浄御原宮に移されました。

しかし、父が天皇になったことで、大津皇子の立場は微妙なものとなりました。
もし母が生きていれば、おそらく母が皇后、大津皇子は次期天皇だったはずです。
しかし、母が早くに亡くなっているので、母の同腹の妹・鵜野讃良皇女が皇后になりました。
大津皇子にとっては叔母にあたる人ですが、皇后には大津皇子よりひとつ年上の草壁皇子がいました。
息子を次期天皇にしたい皇后にとって、大津皇子は邪魔な存在になったのです。

壬申の乱の翌年(673年)、13歳の大伯皇女が斎王に就任、1年かけて身を清め伊勢神宮に移りました。
例外はありますが、斎王になるというのは神のものになるということで、俗世間から切り離されて神事中心の生活を送る事になります。
結婚も出産も出来ません。
父・天武天皇が目指す国の形には必要な役職でした。

大津皇子17才の時、天武天皇と皇后が皇子たち6人を集め、草壁皇子を次期天皇とすること、それぞれ母が違っても皆で協力すること、決して争わないことを誓わせます。
6人の皇子のうち2人は天智天皇の子です。
皇統が天武に移ってるので、皇位継承者にはなれません。
後の4人は天武の子ですが、皇后の子は草壁皇子だけです。
壬申の乱のような皇位継承争いを心配して、草壁皇子以外の皇子たちに釘を差した形です。

大津皇子21才の時、初めて政治に参加します。

懐風藻は大津皇子の容貌や性質について、こう書いています。
「背が高く容貌に優れ度量が大きい。
幼少の頃から学問を好み、知識が広く詩や文をよく書いた。
成人すると武芸を好み、力が強く剣を上手く操った。
のびのびと自由な性格で規則に縛られなかった。
高貴な身分でありながら腰が低く、人には丁寧に接した。
これ故、慕う人が多かった。」

この非の打ち所の無さそうな大津皇子の気質は、病弱な草壁皇子を擁する皇后を警戒させ続けたと思われます。
のびのびと自由で規則に縛られない大津皇子が、いつ天武天皇のように皇位を奪いに来るのか。
その時、息子の草壁皇子に付いてくれる味方はいるのか。
皆、大津皇子を支持するのではないか…。

そして大津皇子24才の時、父・天武天皇が亡くなります。
草壁皇子がまだ25才と若いため、皇位は皇后が継ぎました(持統天皇)。

父帝が亡くなった途端、大津皇子の身辺は急激に危なっかしいものになりました。
万葉集には、大津皇子が密かに伊勢に来て、また大和に帰って行ったことを悲しむ大伯皇女の歌があります。
最後にひと目、姉に会っておきたかったのだと思います。

そして父が亡くなってから1か月も経たない686年10月25日(朱鳥元年10月3日)、大津皇子は謀反の疑いをかけられ、磐余(いわれ)の自邸で自害させられました。
日本書紀には、この時、大津皇子の妻の山辺皇女(天智天皇の子)が髪を振り乱し裸足で走り出て殉死した、とあります。
二上山の雄岳山頂付近にある二上山墓が大津皇子の墓とされています。




大伯皇女の歌は6首、万葉集にあります。
6首全てが弟を想う歌で、絵の中に書き込んだのはそのうちのひとつです。

うつそみの ひとなるわれや あすよりは 
ふたかみやまを いろせとあがみむ
(この世の人である私は明日からは二上山を弟として見ます)

大津皇子の死の翌月、大伯皇女は斎王の任を解かれ都に戻りました。
そして702年1月、42才で亡くなります。



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